バスケットボール部では本年度も無事卒業生を送り出すことが出来ました。またすでに全員が4月からの進路が以下のように決まりました。文武両道で精進してきた卒業生に敬意を表したいと思います。また卒業生の一人が手記を寄せてくれたので、ご紹介したいと思います。
高校3年生進学先
・関西学院大学 総合政策学部 ・立命館大学 国際関係学部 ・日本大学 理工学部
・上智大学 外国語学部 ・上智大学 国際教養学部 ・国学院大学 法学部
・早稲田大学 国際教養学部 ・アメリカ大学進学予定
学校生活を振り返って
今回無事上智大学という自分の望んだ大学に合格することができました。自分の学校生活を振り返ると、とてもお手本になるような生き方はしてきませんでしたが、なかなか普通じゃ経験できないような波乱万丈な生活をしてきたと自分でも思うので、振り返ってみようと思います。
もともと父親の仕事の関係で、生まれた時から色々な国を転々として、合計8年間海外暮らしが続きました。昔も今と変わらず勉強や学校が大嫌いで、勉強は一切しないし、親が通わせた習い事も全部サボって部屋に引きこもっていました。アメリカでの中学1年の最後のほうは学校にも行かなくなり、完全にひきこもりと化してしまいました。
しかしこの頃英語の映画と音楽が趣味だったこともあり英語に触れていたことが、今の英語力を養えるきっかけとなったのかもしれません。日本語の文章力はネツトでオタク文化に触れることで生活に困らないぐらいは覚えることができました。
そんな醜い生活を送っていたため、ついに親に怒られて「日本に帰れ」と印籠を渡され、人生初の寮生活を暁星国際で送ることを決めました。他の学校も受験しましたが、「海外で生活していたわりには、英語できないね」なんて言ってくる学校もあって、かなり落ち込んだのを今でも覚えています。
編入後の中学生活は自由奔放にやらせてもらい本当に楽しいものでした。大学なんてまだ先のことだから、勉強も適当、テストの点数も全く気にしていませんでした。いろいろ問題も起こして、たぶん先生方はダメな生徒の筆頭に挙げていたことだと思います。しかしクラスはみんな仲良くしてくれて、はじめて学校が楽しいと思えるようになったのですが、そこで仲の良い友人にバスケットボール部に誘われ、運動なんて全くしたことがなかった私が、初めてきつい運動部に入部することになります。
バスケット部のことを語ると、本当に何ページあっても書ききれないぐらいですが、今引退してから考えると、このバスケ部に在籍できたことが私の人生に一番の影響を与えてくれたことは間違えありません。中学2年で入部した当初は、人生初めてのハードな練習に体が耐え切れず、いつも膝や足首は炎症起こしまくり、指も毎日つき指でボロボロでした。しかし入部後数ヶ月経つと、先輩方にも可愛がって貰ったこともあり、だいぶ性格が明るくなったことが自分でもわかりました。鼻の下まで垂らしていた前髪はバッサリ切り落とし、寮の部屋と学校の往復しかなかった毎日が、クラブのおかげでどんどんと世界が広がっていきました。すごく大人に見えた当時の先輩方は全てにおいて憧れでした。林先生は自分にとって初めて逆らうことができない尊敬する教師となりました。しかし、相変わらず毎朝起きたらまず、「部活嫌だな」と考えるほど練習にはウンザリしていて、毎週ほぼ1日は学校を早退し、すこし「だるいな」と感じたらすぐに学校をサボるような愚かな子でした。でもどんどんと健康な体になり、内気だった自分の性格も変わっていくのが分かるのは、自分でも嬉しかったです。
震災を挟み、高校に進学した瞬間、勉強が急に難しく感じるようになり、数学や化学の点数は限りなく0点に近い点ばかりでした。「高校からのテストは大学に影響するからちゃんと点数取っとけ」と先輩にいつも言われていたのに、「受験なんてまだまだ先のこと」と思っていた馬鹿な私は、毎日ヘラヘラ不真面目な生活を送っていました。バスケ部は、林先生と先輩が怒るからという理由だけで参加するようにしていました。
そして高校1年生の夏休みに、アメリカの親元に帰り家でゴロゴロしていた時に、急にまじめに生きて行くのがバカバカしくなり、学校にもう行かないと騒ぎ始めることになります。新学期が始まっても、かばん一つ持って色々な人の家を泊まり渡り放浪しながら、真剣にバイトや住む住所を探して、高校を中退して1人で生きていくことを半ば決めていました。
しかしながら、間もなくお金も気持ちも限界が近づき、林先生が「帰って来い」と怒っていたのが怖くて、渋々学校に戻ることになりました。欠席が続き、クラブのチームメートも裏切ることになった自分は、皆に合わせる顔もなくクラブも辞めようと決心していました。そこで林先生に「退部したい」ことを説明したら、怒鳴られ責められ「絶対辞めさせない!」と言われ部員みんなの前で泣かされ、バスケ部全員で私のことを引き止めさせて、無理やりバスケ部に残る、否、残されることになりました。
そんなことがあって、結果的にはもう一度チャンスをもらい部活を続けることができるようになり、まずは「練習も授業も休むことをなくそう」とそこから思い始めたことを今でも覚えています。欠席日数も高1では30日近くあったのに、高2・高3では1日欠席しただけ、それもパスポートを取りに行くためやむを得ず休んだだけ、という変化には自分でもビックリでした。
高2になり文系コースが始まり、苦手な理系科目の授業を受ける必要が無くなり、比較的得意な英語が点数を伸ばしてくれて成績も上がり始めたのは本当に嬉しかったです。バスケ部でも少しずつではありますが、試合に出場させてもらえるようになり、また生徒会副会長に選ばれたり、寮委員会に参加したりと、このあたりから一気に人生が軌道に乗り始めていくことが分かりました。
自分に自信がついて来たこともあり、林先生から好きな英語を活かしてAOで「上智大学や早稲田大学を受験してみては?」勧められたこともあり、いかに難易度が高いかなども調べもしないで、無謀にもこの2校を志望校とすることに決めてしまいました。
そして高3になり回りが段々と受験で焦り始めちょっとずつ危機感を覚え始めるのですが、なかなか勉強は捗りませんでした。夏休みに同じ志望校を狙う人たちが沢山いる予備校に初めて顔を出し、早稲田レベルを狙う人たちの英語力と真面目さを目の当たりにして、初めて本格的にあせり始めます。過去問題などにトライしても、さっぱり解けず勉強してこなかった分、単語力や文法力が恐ろしく足りず、「無謀な挑戦か」とすっかり落ち込むことになりましたが、楽天的な自分の性格が幸いしてか、志望校のレベルを下げることは全く考えませんでした。
これには5年間厳しい運動部の環境に所属し、いつも高い目標を目指していたことで身に付けた精神力が大きかったのかもしれません。
更に、いざ志望理由書を書く段になっても、出願期限の最後の一日まで終わらせられず、先生にも助けてもらい、ぎりぎりになってやっと完成する始末でしたが、本当に先生方には迷惑をかけて申し訳ないと思っています。
試験日も自信喪失気味で、もうほとんど諦めていたのですが、とにかく運が良いことに過去最も簡単な問題が出題されており、これには本当に自分でもいまだに驚いていますが、無事合格できたことで、少しは実力もあったかなと更なる自信にもなりました。たぶん本当に苦労することになるのはこれからだと覚悟していますが・・・。
取り止めもなく書いてきてしまいましたが、私の人生はひたすら回りの人にお世話になりながら、ここまで本当に運良く進んでくることができましたが、軌道に乗れば人間案外うまくいく時はうまくいくもので、自分にプラスになると思うことはとことんやり遂げることが何よりも大切なことだと思います。こんな手本にならない人生はなかなか無いと思いますが、少しでも参考になることがあれば嬉しいと思います。
とにかく私の人生は、自分の努力は二の次で、バスケ部の友人と先生方のお陰で無事軌道に乗ることができたことを、この先一生絶対に忘れずに生きていきたいと思います。